からほり新聞 第39号

からほり新聞 第39号

2017年(平成29年)1月10日発行


この町での生活にすっかり慣れてきた頃、私は衝撃的な出会いをする。かみなり亭のかみなり豆腐である。初めて食べた時の衝撃、そして毎日でも食べたくなる中毒性。私はかみなり亭に行くようになった。ちょうどその頃、アパートからの退去を余儀なくされる事件が起き、引越しをすることになったのだが、引越し先の条件として「徒歩でかみなり亭へいけるところ」を第一条件に引越し先を決めた。「かみなり豆腐がある限り、私は空堀界隈で生きる」とよく分からない決意をしたが、今もそれは変わっていない。
(底なし沼への誘い 「空堀ランチ情報など」ライター ちだゆっこ)

ロシアの地で日本の文化・言語・情報を伝えた伝兵衛は、日ロ交流の嚆矢とも言うべき人物ですが、それが何と、空堀界隈に住まいしていたらしいのです。
今もモスクワの古文書館に現存する、当時の彼の直筆署名には「万九ひち屋 たに万ちと本り 立半耳(に)すむ 伝兵衛」と書かれています。榊さんは1688年の「大阪三郷図」で「立半」という地名が、現在の空堀通りと谷町筋の交差する当たりに記載されていることを確かめました。そして、この町名は、明治時代の初期まであったそうです。
(ロシアの記録に残る日本人漂流民伝兵衛を追う 日本ユーラシア協会大阪府連理事長 榊正明さん)

71年前、1発の閃光が一瞬にして広島を焼き尽くし、死の灰の洗礼で罪のない一般市民を地獄の苦しみに追いやった運命の8月6日、私は17歳。広島から単身奈良の女高師に在学、学徒動員で舞鶴の海軍工廠にいました。
そして終戦、家族の消息など一切不明のまま帰省する事になり、貨物列車に乗って2日がかりで広島に辿り着きました。近づくにつれて強くなる、焼けただれた焦土の鼻をつく臭いが今も忘れられません。爆心に近い母校の広島第一県女の同級生50人の内15人が即死、その後も被爆が原因で次々と他界。80歳を過ぎてから白血病を発症した友、癌に侵された友。まともに生活できている友は数人です。瞼に焼き付いっているあの友この友の笑顔。校長先生も、校長室の椅子に腰掛けたまま亡くなられました。今母校の慰霊碑には先生や友の名が刻まれ、折り鶴やお線香の絶えることがありません。
(私の原爆体験 加納泰子さん)

からほり新聞 第39号

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■ 発行/「からほり新聞」制作チーム(「非営利活動法人 高齢者介助の会」内)

特定非営利活動法人 高齢者外出介助の会 とは?

◆お年寄りの皆さんにより楽しく充実した日常生活を過ごして頂くために活動しています。

  • 外出介助(買い物、墓参り、通院など)
  • 暮らしサポーター(買い物、薬の受取、入院時支援など)
  • 車椅子貸し出し(お気軽にご利用ください)
  • 生きがい作り講座(童謡・唱歌を歌う会、布ぞうりなど)
  • ハーモニカ教室
  • 「からほり新聞」制作

◆活動に共感してくださる方がいらっしゃいましたら、ぜひ、一度、ご連絡をお願い致します。
 お待ち致しております。

所在地 : 大阪市中央区松屋町4-8メイツ松屋町1階
TEL&FAX : 06-6764-4002
Mail : odekake@helen.ocn.ne.jp

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